注册 登录  
 加关注
   显示下一条  |  关闭
温馨提示!由于新浪微博认证机制调整,您的新浪微博帐号绑定已过期,请重新绑定!立即重新绑定新浪微博》  |  关闭

江南

明月别枝惊鹊,清风半夜鸣蝉。

 
 
 

日志

 
 

馮賢亮: 太湖平原の水利変化と地方社会(1368-1928)  

2014-04-26 00:05:43|  分类: 江南研究 |  标签: |举报 |字号 订阅

  下载LOFTER 我的照片书  |

 

 

太湖平原の水利変化と地方社会13681928*

馮賢亮

 

《中国水利史研究》(大阪) 2012年第41

 

 

一 平原環境と水利

 

太湖平原は,また「太湖水系平原」あるいは「太湖流域地区」と称し,一つ独立の地文系統に属し,明代以来中国経済の重点と重要な財政源の出所地である[1]。早くも顧炎武時代(16131682)では,太湖の面積は約36000頃,東西200余里,南北120里,周囲500里であり,蘇?常?嘉?湖四府の地域を跨っていた。その水系の支脈には,北は百瀆があり,応天(江寧)?常州?鎮江諸府の水を収納し,南は諸があり,宣州,歙,臨安等地方のの水を集合し,東は「三江」があり,太湖水が海へ流入する主要な道である[2]。ここに生活している人々は固い意志をもって,巨大な工程を造り,堤防の修築?運河の開盤?養分を富んだ河水の農田灌漑?有機質を富んだ淤泥の肥田を含んでおり,土地を日一日に成熟させた上で,高度密集な人口を支持することもできた[3]

水流について言えば,西部の茅山と天目諸山からきた水が荊渓と苕渓に合流してから,太湖に転入し,太湖の上流となっている。荊渓は,現在では南渓とも称し,宜山地と茅山の間の諸水流を集合し,宜興以東に至って60本あまりの港瀆(水路)に分かれ,大浦口?百瀆口等を経て,湖に流入している。渓は,今,渓とも称し,天目山北東側発祥の東溪と西溪が合流して成したものであり,現在では湖州市で分枝し,70本あまりの漊港が形成され,主に大銭口?小梅口及び夾浦口を経て太湖に流入している。太湖水の排水は蘇州と無錫境界内の沙墩口?胥口?瓜涇口?南厙口?大浦口等を経由し,さらに望虞河?胥江?婁江(下流では瀏河と称す)?淞江(下流では蘇州河と称す)?黄浦江等数十本の河港をそれぞれ経由し,長江あるいは海に流入している。総体的に言うと,太湖水は主に南西部から発祥し,北東側に排出し,南西から北東までの傾斜流が形成されている。また,太湖水が浅いため風向流になりやすい。この2種の湖流が交互的に作用し,湖水の流れが一年中にも左回りの主流帯となり,西岸と南岸への侵食が深刻であった。このような限られた地理的条件の下で,江南に誕生した治水の技術は,それと深く関わった。

 更新世(年代測定は今から約126000年~10000年前)末期以前,太湖平原はすでに陸地となった。おおよそ中新世(11500年前)中期,気候の温暖化につれ,海水面が上昇し,附近の山岳地帯の河川が太湖地域の低い地域に集結し,現在の太湖の雛形を形成させた[4]。その後絶えずに拡大し,宋元以後太湖の区域が次第に安定し,現在の規模に発展してきた。太湖の形成と同時に,下流の三江も発展しつつあった。江南地域湖泊の大量的出現により,古代の三江は狭くなり,さらに淤塞になりはじめた。その中に決定的な要素としては,陸地の不同一的に沈下及び河水面の上昇により,潮流の淤泥が途切れなく沿海地域に堆積し,海岸線を外に拡張させたことであった。三江のなかの東江?婁江が淤塞された後,淞江も日々狭くなり,多くの湖を出現させた。結局,黄浦江は淞江を代えて,太湖水排水の主流となった[5]実際,13世紀末に出現した江南地域の水利環境変化の主な原因は,海水面が再び下降し,おそらくこの時期,中国の気候は温暖期から寒冷期に転じ,「明清小氷期」に移行したからであろう[6]。これは,呉淞江は太湖水が東へ海に流入する主要な道としての地位を喪失させた一つの誘因であると思われる。そのため,黄浦江が呉淞江の主流としての地位を取って代わったことは決して偶然ではない。

 それと同時に,新たな江南の水のネットワークシステムは日一日に形成した。この形成のプロセスは地域の社会的経済的環境に大きな影響を与えた。最も典型的な事例は,江南の大鎮,青龍鎮の盛衰である[7]。青龍鎮は「富商巨賈豪宗右姓之所会」,「人稱小杭州」 [8]の巨鎮から,元末以後の「茂草之地」[9]と変った。これは淞江が水系中の主流的地位の喪失と無関係ではないことは明らかである。

 現在太湖の湖域,水面と湖沿岸の低山丘陵を含んだ面積は約3426平方公里(1公里=1000メートル),すべての流域の面積は,合計3.6571万平方公里である。湖域の年平均気温は,15.516.5℃,7月平均気温は約28.5℃,1月平均気温は約3℃である。太湖地域のいたる所はすべて水路航路で通じている。

 

二 地域の開発と水利環境への認識の変化

 

 漢代では,司馬遷は『史記』において,楚越の地は土地が広く,人が少ない,経済生活の基本的な様式は「飯稲羹魚,或火耕而水耨」と言いながら,「江南卑濕,丈夫早夭」(江南地方の地勢が低く,気候が湿潤で,青年男子が長寿にならず)とも言っている。彼が言うこの「江南」は常に「楚越の地」と対応している[10]。従って概括的に言うと,司馬遷の思う江南は,早期中国人の江南水郷環境への初歩的な認識を代表することができ,「卑湿」,「丈夫早夭」の険しい地域である。しかし,この地域の範囲はあまりにも粗雑過ぎており,おおよそ長江中?下流以南の地域,特に現在の江西?安徽?江蘇南部?浙江一帯である[11]

 西暦3世紀以来,長い間に中国の南北地方が分裂の状態であった。江南地方の割拠政権は自身の実力を伸ばすために,水利の建設に力を入れ,農業生産を発展し,経済的開発に急いでいた。東漢以後,南方の大土地所有制が一直線に上昇する勢いを維持していた[12]。西晋末年永嘉の乱は,大勢の北方人民を南方に遷移させ,太湖平原地域に先進的な生産技術をもたらし,当地の生産力を大幅に向上させた。とりわけ治鉄業(製鉄業)は3世紀以後大きく発展してきた[13]。江南は,司馬遷が描いた恐ろしい地域から人々に憧れられる天国と化してきた。この面において最も顕著に表しているのは,太湖平原地域が原始的状態から大規模な開発に発展し,日常生活の状況も大きく改善され,自然の容貌も人々に称賛される所となった。唐の白居易は「江南好,風景舊曾諳。日出江花紅勝火,春來江水綠如藍」江南の好き,風景舊(もと)曽て諳(そら)んず。日出づれば江花紅きこと火に勝り,春來らば江水綠(あを)きこと藍に如(し)く能く 江南を 憶はざらんや)という詩を歌った。まさにこれは,この地域の自然水文環境の綺麗さをはっきりと説明している。

 しかし,唐末五代から,人工的改造の増強により,太湖平原の水環境が日増しに人類の活動に妨害され,人類社会への逆作用を次々と呈した。この面においての一つ重要な現れとしては,塘浦圩田系統の形成と発展である[14]

 唐宋時期の安史の乱?靖康の乱を代表とする二度の北方人民大南遷は,太湖平原の開発を激化し,技術的な力を充実し,豊富な労働力を提供させた。分裂時期に存在していた割拠政権が地方への積極的な開発を加えて,運河?水利事業の面では農業の発展に重要な契機を齎した。これに基づき中国歴史上において一つの重大な転換期が出現し,即ち唐宋以後,中国の経済重心が南方に転移し,それ以降にも変化しなかった。注意に値するのは,自然的な水文環境と生態的な均衡の破壊は,宋代に顕著になった[15]。宋代,江南水利に注目した著名な官吏が多く,たくさんの建設的な意見を提出した。代表的な人物は,単諤である。彼は早くからすでに蘇?常?湖三府の水害が最も長いと指摘し,溧陽五堰以東から江岸までの間は,人間の体のようである。即ち「五堰其首,宜興荊溪其咽喉,百瀆其心,震澤其腹,旁通震澤衆瀆其絡脈眾竅,江則其足也」[16]である。これは,太湖流域の全体を着眼し,水利の趨勢を語ったものである。清代の淩廷堪もこの人体器官系統の喩えを用い,湖州地域の河湖漊港水利を議論していた[17]

 宋王朝を継いだのは,草原の帝国?アジアや世界に名をはせたモンゴル元朝である。多くの元代の資料及び明代人の回想によると,元代の太湖平原の民衆にかけられた生活的圧力は明代より軽く,農民が負担する賦役も宋代より少なかった。水環境への人為的な加害は,実にそれほどひどくなかった。しかし,明代以来の状況は大きく変わっていった。一般論として,江南水利の枢要は「三江」地域にあり,即ち松江?婁江及び東江流域である。元の海寧人周文英は「天下之利莫大于水田,水田之美無過於浙右」と言っていた[18]。彼のいう浙右は,当時の錢塘江以北の江浙行省部分のはずであり,太湖平原を丸ごとに包含している。明の人は,「東南民命,懸於水利,水利要害,制于三江。」[19]と最も明確に言っている。嘉靖11年の進士,江蘇溧陽県令を経験し,後に蘇?松?常?鎮等府を巡按し,江南水利を管理した事があり,『三呉水利図』を著した浙江新昌の人呂光洵(15081580)は,かつて「水利之興廢,乃民利病之源[20] と言っていた。海塘?東江が荒廃した後,松江と婁江が太湖の水を受けるようになり,水害も自然に多くなった。正德時の人桂萼も,嘉?湖等地方に対して「震澤?東海之所經也,沖淤壅,大遺三農之害[21] と指摘していた。これに対し,治水に関する議論及び水利の工事が明代において絶えることはなかった。明の永楽元年(1403)から崇禎元年(1628)までの間,重大な水利政策は,諸史料の記載によると,計89件があり,特に弘治,正德,嘉靖,万暦四朝が最も多かった[22]。具体的な制度の手配上では,河港水利の浚渫?整備作業は,主な労力的負担から「照畝科派」に大きく転換した。万暦年間,江南水利の労力的負担は,原則として「田頭」制から「照田派役」制に変り,これに基づき,水利工事は直接に佃戸が労力を提供し,地主が「工本」を負担するという階級関係が明確された[23]

 その中,淞江の水環境及びその整備は,長い間に最も肝心な問題とみなされていた。ここでは,清の初期嘉興府秀水縣の人陳士鑛著『明江南治水記』の記述を引用し,明代の大型工事とその措置を示したい。その重心はすべて淞江地域にある[24]

永楽元年(1403),嘉興?蘇州?松江等府は年々の水害と「屢敕有司督治無功」(整備しても効果なし)により,四月,政府は戸部の夏原吉を江南水利の整備に行かせた。六月,侍郎の李文郁を夏原吉の補佐として行かせ,「相度水田,量免今年租」(水田の様子を考慮し,今年の租税を免じる)とした。八月,都察院僉都禦史の士吉を派遣し,『水利集』を夏原吉に賜り,疏治の法を講じさせた。夏原吉は,10余万の民工を監督し,江南河道を浚渫し,「日夜經畫,盛暑不張蓋」とし,やがて河川を流暢させ,「農田大利」となった。永楽二年春,夏原吉は再び蘇松に行き,旧河をさらい,大理寺少卿の袁複を補佐とさせ,六月,陝西按察司副使の宋性は布政使右參政として,夏原吉に追随し治水を行ない,三ヶ月後治水が成功し,朝廷に戻った。永楽三年六月,朝廷は夏原吉と僉都禦史士吉,通政使趙居任,大理寺少卿袁複を命じて,蘇松嘉湖の水害に遭われた難民の救済を行かせた。宣德七年(1432)九月,蘇州知府況鍾と周忱は命令により江南水利を整備した。周忱等は呉淞江を浚渫した後,天順年間では巡撫崔恭は大盈浦を浚渫し淞まで繋がらせた。弘治年間,水利僉事伍性を特別設置し,淞江の中流と顧会の趙屯浦を浚渫し,また工部侍郎徐貫を淞江の修治に行かせ,工事が帆歸浦から分莊まで七十里余りであった。嘉靖元年(1522)に至り,巡撫李充嗣は華亭?上海?嘉定?昆山四縣の民工を起用し,四十余丈(1丈=3.3メートル)の呉淞江を浚渫し,以後の十余年間に洪水や旱魃の災害をなくさせた。陳士鑛は,嘉靖二十二年巡撫呂光洵が水利の三事を疏治した事を詳細に記録していた。[25]しかし,翌年呂氏の治水が記述されておらず,しかもこの治水の規模も比較的に大きかった。その後は,隆慶四年(1570),巡撫應天十府の海瑞は,松江知府?上海知縣と一緒に王渡から宋家港までの河道を浚渫した。万曆十五年(1587),呉中が水害に遭ったため,許應逵を水利副使と命じ,松江に駐在させ,まず淞主流,次にその支流を開いたが,「開浚未完,故道反塞」となり,成功に至れなかった

 明の人の見方によると,太湖流域は,太湖本体の水域を除き,上?下二大流域に分かれることができ,上流地区は嘉?湖?常?鎮の四府を含め,下流地区は,蘇?松の二府を含め,いわゆる「上流不浚,無以開其源,下流不浚,無以導其歸」[26]。まさに,これは上?下流水利系統の整備を行なうため,提出された重要な観点であり,代表的なものであった。これと類似している観点は,明代にも稀に見ることではなかった。嘉靖から万暦年間までの杭州人張瀚は,太湖上流の五堰と下流の「三江」を整備する必要があり,「以時蓄洩」という良い目的を達する事を期する[27]と考えていた。また,上流の湖州府等地方の水利整備を強化し,浙江境界内の水流を分散し,太湖の貯水への圧力を軽減し,「專治三江之難」を減少する[28]ことも人に指摘されていた。万暦年間の桐郷人李楽も「宜興,湖州諸閼水歸太湖無礙,則常之宜興?武進,湖之烏程?歸安,松之華亭,可無水患,浚淞江,白茅之閼,太湖之水入江海無礙,則蘇之長洲,常熟,昆山可無水患」[29]と考えていた。

 以上は,太湖流域の水利を綜合的に整備する考えである。呂光洵は,また,水利は太湖地域各府の賦額の高低と緊密な関係を持つことを強調し,蘇州の通水は最も便利であるため,賦額がもっとも高く,鎮江は地勢が高く,山が多く,通水が不便であるため,賦額が最も低い[30]と認識していた。故に,明の中央政府の注目する所のほとんどは,この下流地域である。なぜならば,これは,また大勢の人々の考えを代表しているからである。例えば明末清初の桐郷人張履祥が言う「治水須從下流施功」 [31]である。順治時期,江南に十数年も居住していた布政使の慕天顏は,江南の農事を熟知しており,朝廷への上奏の中に「江南賦甲天下,又大半出於蘇松常鎮,以蘇松常鎮而論,要先大興水利而後可言足国富民」[32]と指摘していた。慕天顏のこの論述がまだ太湖下流地域水利の重要性を強調していたことは明らかである。

 しかし,事情は常に変化している。清の著名な学者魏源が江南の水利を論及している時,「江浙兩省形勢山脈,一自湖州趨杭州,一自鎮江趨常州,南北皆高,而嘉興,蘇州,松江,太倉適當其中窪。自江蘇一省言之,則地勢北高南下。黄東江,淞中江,劉河婁江皆泄太湖之水入海。再北為白茆,七浦,為孟瀆,則泄太湖之水入江。是為五大幹河。……陶(澍),林(則徐)二公之興役,亦惟淞大資宣洩,而劉河,白茆則海口築,以防渾潮倒灌之患,可灌田而不可通海,豈非地勢使然哉[33]と述べていた。魏源の江南水利工程に対する言論は,もう単純に水利に対して水利を論じるのではなく,地理的条件に十分な注意を払い,太湖地域全体の地形?地勢に注目したので,比較的に系統的な認識を得ることができた。嘉興?松江二府を跨る泖河について言うと,清代においてずっと注目されており,低い地域の水利建設とその保護は,すでに政治地域の限界を越え,系統的な意識を具備していた[34]

 太湖上流の重要性は,太平天国という戦乱の後,政府が水利を再建する時に,顕著に見せつけられたようであった[35]。水利の専門家である王鳳生は,太湖の水流の咽喉は蘇?松?常?湖諸府にあり,水流の出所とその行方が水利修治の鍵であり,上流の漊瀆を「暢達」させることと,下流の淞江?婁江を「深通順軌」させることが必要であると考えていた。さらに,張邦彦は,杭州府は上流地区に位置し,嘉興府は杭州府の分流地区にあり,湖州府だけは天目山のすべての水流を受け取り,また水が直接に太湖に流入する。湖州水流の負担を軽減するには,必ず「分殺上游暴漲之勢」しなければならないと同時に,「備旱歳瀦蓄之資」とする必要がある[36]。同治五年(1866)王書瑞の朝廷への上奏は,漊港の浚渫を強く要求し,清代前期の湖州の水利事業を回顧しながら,水利の荒廃?土砂の堆積?漊口の淤塞?作物の浸水等の地方社会の基本的な状況を有力に指摘した。その後,朝廷は地方の官員に工事を励ますようと命令した。これは,王書瑞のような地方水利事業に関心を持ち上流水利の整備を重視する官員への支持でもあり,彼らが提出した湖州府は太湖上流水利の「最要」であることと蘇松等府は下流の「最要」であることが共に重要であるという意見への賛同でもある[37]

 

三 水利環境の差異性

 

 外部世界の人々の見方によれば,太湖流域平原の環境は同じで無差別のはずである。ここは皆,水郷澤国であり,水資源が非常に豊富であり,城郷環境もほぼ一致しており,しかも水文環境の形作りと密接な関係をもっている。

 太湖平原は,中部規模の比較的に大きい太湖?澱山湖?陽澄湖?呉淞江?瀏河等の河湖水体のほか,名目繁雑であるが,明確な意義を持つ各種の水体形態も大量に存在している。唐宋以後,これらの自然的な水体は人為的な改善を経て,徐々に比較的に秩序のある水文系統になった。いわゆる「縱而為瀝,橫而為塘,大者為港,次者為浦,轉而為涇,分而為浜,回而為灣,合而為匯,派而為溝,為漕」という各種の呼び名があった[38]

 大量の市鎮は河沿いに成り立たれ,便利な水上運輸と良好な水環境がその存在の源の一つである。ほかの城鎮と同じ,上海県の水道も縦横に入り交っており,そのほとんどが住宅や商号に直通している[39]。このような水網に覆われている州県は,太湖平原においてその数が非常に多い。例えば,市が大いに栄えていた蘇州府の呉江県は,「太湖之委,三江之始」に位置し,または「江浙之咽喉」と称されており,河湖が過度に密集している地域に属し,「大蕩以十計,小蕩以百計,支港以千計,洪流細派,望海東趨,是以跬步皆溪,非舟莫渡」とされている [40]

 しかし,明清時期の人々は,すでに太湖流域の内部環境が実に一律ではないと明確に認識し[41],「一方有一方之物産」いわゆる「山之竹木,海之魚鹽,澤国菱芡,斥鹵木棉,莽羊豕之類」である嘉興?湖州水郷地区では蚕?桑?米?麦等は産業の大宗であり,異なる環境が,異なる生存の方式と生産の選択を作らせた[42]。嘉興府桐郷県のような地方は,土が肥沃で,人が稠密であるため,水利事業さえ維持できるとすれば,「男服耕桑,女尚蚕織」,一般の家庭もこの豊かな生活に辿りつける[43]。しかし,嘉興府地区の内部環境は,明らかな差異が存在していた。明末嘉善の人陳龍正は,嘉興府の地形を論及した時に以下のように述べていた。嘉興県の地勢が最も高く,いわゆる高亢而怕旱(高所が旱魃を恐れる)。秀水県の地勢が低く,水害を恐れる。嘉善県の地勢は南が高く北が低く,「旱則南困,潦則北」(旱魃の時は南が困る,降雨の時は北が悲しむ)の状況が存在している。[44]

 田土(田,畑)の肥沃程度は異なり,民衆の生活に大きな影響がある。明代後期に生活していた華亭の人何良俊は,松江府地方を熟知しており,この地方を例として,水利環境の差異が人々に大きな影響を齎したことを深刻に分析していた。彼は松江府内部の農田に巨大な差異があると強調し,即ち「蓋各處之田雖有肥瘠不同,然未有如松江之高下懸者」である。さらにここを東,西二郷に分け,西郷の情況は「田低水準,易於車戽,夫妻二人可種二十五畝,稍勤者可至三十畝。且土肥獲多,每畝收三石者不論,只收三石五鬥,每可得米七八十石矣。故取租有一石六七門者」である。東郷は,非常に悪い,即ち「田高岸陡,車皆直豎,無異於汲水。稍不到,苗盡槁死。每遇旱歲,車聲徹夜不休。夫妻二人極力耕種,止可五畝。若年歳豐熟,每畝收一石五門。故取租多者八門,少者只黄豆四五門耳。農夫終歲勤動,還租之後,不穀二三月飯米。即望來歲麥熟,以為種田資本。至夏中只吃粗麥粥。日夜車水,足底皆穿。其與西郷吃魚幹白米飯種田者,天淵不同矣」である[45]

 何良俊が論じていたこの環境差異は,確かに実際に存在していた。その後,清の道光年間,異なる環境が異なる生存状況を作らせた事に対し,専門的に技術的な面から比較を行った人がいた。代表的な人物,松江の人薑皋は,同じく松江を東郷(高郷)?西郷(低郷)に分け,両者が自然の変化に対応する中に存在する異なった情勢を論述していた。東郷から言うと,高い所が多いが,「較之低下之田頻年不見春熟者,似乎勝之」である。しかし,「高田兩旬無雨,即有旱象,其車水較難,十畝之田必養一牛,廿畝則兩牛」である。これは西郷に対して東郷の不利条件である[46]

 高郷と低郷の差異は,西部の湖州において最も明確に現わしている。そこは平原と低山丘陵が交互し,高郷と低郷の差異は,実は山郷と水郷の差別である。従って,地理的環境の差異による生活形態の違いは,もっと深刻であった。概略的に言うと,湖州府は南西,北東二部に分けられる。南西地区は交通不便,尾根が多く,山郷とも称している。北東は地勢平坦,河川が多く,水郷と言うべく。山郷と水郷の相違性により,民性(人の性格)も強?弱の区分がある。大抵,山郷の民性はやや強く,闘争が好き,勤労で進取の精神に富んでいる。だが,土地が貧弱で,生計の道が艱難である。水郷の民性は温和で,優雅華麗であり生活に困らず,安逸にむさぼっている。民国の学者は「物之厚薄,于民生至有關係」,蚕桑の利が水郷から出たのは多く,すなわち湖州の北東部地区であると考えていた[47]

 上述のこのような状況の異なる水利環境条件の下で,伝統時代の農田水利は,その多くが一家一戸を単位として基本的建設を行った。一家の水田は近隣の水田と常に隔離されており,田と田の間は分散され,相互の連係がなかった。それぞれの家に,溝?池?桑地が交差しており,地面を凹凸不平させ,桑地が高く,囲圩内の水田は,地平面の上にあり,池と溝が水田の水平面より低いという景観が呈された。例をあげて言うと,浙西地区では,低い丘陵?平原が多く,長期の人工的改造を経て,おおよそ三種の田地景観が形成された。一つ目は桐郷型,人工河溝?人工池塘?人工桑地?人工塍岸の凹凸である。二つ目は金山型,遠くから見ると地形が平たんであるが,近くにいれば斎整ではなくなり,一つの大きな河?池に包囲された地区内に多くの浜?港?涇?溝が相互に錯綜している。三つ目は新登型,山腹区に属し,田段が小さく,段々畑と山間が相互し,地形が非常に複雑である。その中,農田桑園の栽培は,地形を大きく変化させやすい。明代の農村では桑植基地の長期的な効果を重視し,清末までに地形を大幅に変化させた[48]

 

四 水旱災害の影響

 

 明初以降,江南地区最大の自然災害は当然に水害となっている。それと同時に気候の影響により,沿海の城鎮がよく遭う潮災と,太湖平原の全体で発生する旱害が当時の人に注目された。これらの災害の発生は,朝廷から地方までの水利振興活動に常に刺激を与えていた。ある意味で,水旱災害は,江南水利建設の基本的誘因である。

 歴史上,太湖地区の水旱災害は非常に頻繁に発生していた。汪家倫は,ある統計を行なった。彼の統計は不充分の所があるが,これにより水旱情況の歴史的変化への大体の認識を得られる。詳しくは下表1を参照。

 

1                 太湖地区元至清水旱災次

    

水災

旱災

元代(1276-1367

17

5.3

6

15.2

明代(1368-1643

74

3.7

35

7.8

清代(1644-1911

65

4.0

41

6.4

資料出所:汪家倫:『史時期太湖地區水旱情況初分析(四世紀-十九世紀)』(載『農史研究』第三輯,1983)92頁:「太湖地區東晉至清水旱災次表」。

 

 明代以来,世間に伝われている豊富な歴史的文献は,水旱災害の序列再建とランクの区分に必要な条件をつくった。明清地方誌,明実録,档案等の資料により,中国気象局気象科学研究院は,近500年の中国120個地点の旱澇等級の序列を再建した。文献記録の評定により,五つの等級を付け,旱澇災害の区別を数字で表していた。文献には,災害の等級毎に,相応の内容と特徴を記載している。ここではそれぞれを以下のようにあげている[49]

 1級:澇(冠水)。持続時間が長く,しかも強度な降水と大範囲の降水。例えば,「春夏霖雨」,「夏大雨浹旬,江水溢」,「春夏大水,溺死人畜無算」,「大雨連日,陸地行舟」等である。

 2級:偏澇。春,秋の季節に発生した災害程度がそれほど大きくない降水,局部の地区は大水,軽度な災害の台風や大雨。例えば「春霖雨傷禾」,「秋霖雨害稼」,「四月大水,饑」等である。

 3級:正常。豊作年,水旱記載がない。例えば「大稔」,「大有年」,「有秋」等である。

 4級:偏旱。一季や一月の軽度災害,局部は旱害になる。例えば,「春旱」,「秋旱」,「旱」,「旱蝗」等である。

 5級:旱。旱魃は数ヶ月も持続し,四半期を超え,大範囲で厳重な旱魃。例えば,「春夏旱,赤地千里,人食草根樹皮」,「夏秋旱,禾盡槁」,「夏亢旱,饑」,「四至八月不雨,百穀不登」,「河涸,塘乾」,「井泉竭」等である。

 上述の等級分けの中,1級澇,5級旱が表した災害状況は最も厳しい。

 明代,太湖地区の特大水害は,主に嘉靖四十年,万暦十五年,万暦三十六年に発生していた。当時の人は,特に万暦三十六年の大災害を強調し,「二百年来未有之災」と言っていた[50]。常に後世の水害対策と水利建設の対照となっていた[51]。しかし,後に人々は,崇禎十三年(1640)に発生した大水害は万暦年間の水害を遥かに超え,めずらしい特大水害であると思っていた[52]。この年洪水による大凶作は,「道殣相望」とされ,数え切れないほどの人がなくなった[53]。清代では,ある学者は比較を行ない,清朝管理下の267年の中,長江流域の大小水害が100回以上であり,すべての大水害が太湖地区に発生したと指摘した[54]

 太湖地区においての旱害は,夏?秋の両時期に多発していた。春季が多く,冬季が少ない。清代順治十八年(1661)桐郷の人張履祥の崇德県友人曹射侯への書信は,当時の水旱災害は絶えずに崇德?桐郷?海寧等の地方に危害を加えたと指摘した。張履祥は,水郷澤国の江南は大旱魃に遭い,田禾(作物)がすべて枯れ,運河の水が西へ逆流し,嘉興府から皂林鎮までの地方の百姓は酷暑に耐え,昼夜不断して農田を「車救」し,届かないところは天を望んで嘆声をもらすしかなく,「彌望皆枯」という事を経歴していた。これらの地方は,最も豊かな地区の一つであるが,災害時期では同じく百姓が流亡し,「桑柘伐」,「室廬毀」と「父子夫婦離」等の悲惨な風景が現れ,しかも,「逃賦役者莫敢歸,丐於途者靡所適」 [55]となった。清の時代,太湖地区が発生した大旱害は少なくとも14回,即ち,順治9年(1652),康熙10年(1671),18年(1679),32年(1693),46年(1707),53年(1714),61年(1722),雍正元年(1723),2年(1724),11年(1733),乾隆50年(1785),嘉慶19年(1814),道光15年(1835),咸豐6年(1856)であった。この14回の旱害は,各地の文献記載からも見られる。しかもその被害程度の等級も大体一致しており,これを重災と定めても疑義がないだろう[56]。ここでは咸豐六年の事例を挙げ,旱害の被害程度を示したい。災害の状況は,この年の五月から六月まで降雨がなく,枝河が皆干涸し,作物も枯れてしまい,後に城郷の間に秋蝗が天を覆うほど発生し,作物を傷つき,米価を高騰させた[57]。被害状況は太湖各地において大同小異である。下の表2を参照する。

 

2                  咸豐六年江南旱情的初步統計

府 縣

旱 情 發 生

災 害 影 響

寶山縣

夏秋大旱4月,至八月始雨

川沙縣

夏大旱,自五月至六月

苗槁

南匯縣

八月旱

飛蝗蔽天,僅食蘆葉

奉賢縣

夏五月至六月不雨

 

金山縣

秋七,八月大蝗

沿海大饑

青浦縣

夏大旱

遍地生毛,秋七月飛蝗入境

嘉定縣

夏大旱

 

松江縣

夏旱

秋八月飛蝗蔽天,城俱有

上海縣

夏大旱,九月大雨

蝗自北來

崇明縣

夏大旱

地生毛,秋蝗,不登

蘇州府

六月旱

 

江陰縣

大旱

運河河底乾裂

常熟縣

夏大旱

秋蝗蝻生

昆山縣

夏大旱

河港多涸,諸河步行可通,農民戽水甚艱,八月飛蝗蔽天,集田傷禾

太倉州

夏旱

秋蝗傷禾,大疫

江縣

大旱

 

 

夏大旱

七月蝗從西北來,如雲蔽空,傷禾

烏程縣

大旱

水皆西流,大饑

歸安縣

夏大旱

湖州府

大旱

蝗,大饑

嘉善縣

六月亢旱

支河皆涸,秋蝗災

嘉興縣

夏大旱,六月旱

 

平湖縣

夏六月旱

秋蝗,冬斗米四百五十錢

夏大旱,五月大旱

河水涸

德清縣

六月大旱

長橋河皆涸,山田無秋

海鹽縣

夏大旱

河盡涸,田無禾

武進縣

夏大旱,七月旱

秋蝗,河水竭

溧陽縣

夏大旱

秋蝗,民饑

溧水縣

夏五月至秋不雨

資料出所と明:上海,江蘇,安徽,浙江,江西,福建省(市)氣象局,中央氣象局研究所編:『華東地區近五百年氣候歴史資料』(1978年印行本),第1.322.1302.1874.80頁。統計資料は地方誌の記載を主とし,個別に『清実録』の記録を補填している。

 

 なお,江南の感潮区域の中,日常的生活と緊密に関わっているのは淡潮である。濁潮は農業生産に不利し,日用の生活にもよくない。淡潮が出現する地方には,自然的潮汐による灌漑が可能である[58]。すべての感潮地域には,淡潮を利用し灌漑作業を行う事ができる。江南沿海の一部の地区では(崇明県等)潮汐灌漑は,比較的に成熟な管理形式と施設をもっている。大戸が小戸(一般的には佃戸のことを指し,彼らは田地の各所に散在し,有事の時に集まる)を率い,潮汐を利用して灌漑を施す。田地の広い所に高い堤が建設されており,大潮の防止に当たっている。堤防には水宝(引,排水用の通路)が設置しており,閘(水門の開閉扉)で開閉を行う:旱,上げ潮の時に閘を開きこれを灌漑し,(冠水),潮が引く時に閘を開きこれを排出する[59]。しかし,潮水の満ち引きで齎した土砂は直ちに浚渫しなければならない。明代では,潮水を利用して灌漑を行なうと同時に,すでに田畑のほとりに岸を造り,土砂を防ぐ事に注意し,あるいは,樁橛(くいを打つこと)を利用し大潮を隔てることができた。当時この潮汐を利用して灌漑した田を「沙田」と呼び,明らかにこれは土砂堆積が多いからである[60]。従って,新たな問題が次から次へと現れた。潮汐灌漑の中では,いつも「海水一潮,其泥一篛」の情況が出現し,一定の時期になると,内陸の河川支港が淤塞し,荒廃に至る[61]。十一世紀,太湖最大の排水路は呉淞江であり,上流の呉江県地区の土砂詰まり情況が深刻であった。「岸東江尾,與海相接之處汙澱,茭蘆叢生,沙泥漲塞」となり,江岸の東では,「自築岸以來,沙漲成一村」となった。もし東風に遭えば,海潮に逆流が発生し,「泥沙隨流直上」となる。この状況は,臨江湖海の諸港浦にも「勢皆如此」である[62]。遅くても清代に至り,潮汐灌漑がもたらした土砂は,劉河を詰まり,太湖平原の農田に大きな被害をこうむらせた[63]

 

五 水利問題と地方社会

 

 水利事業は,太湖地区の最も重要な意義を持つ社会的公共工事である。蘇州?松江?嘉興?湖州地方では,農田の灌漑は単純に水車(よく使われるのは翻車)を使い,「旱則車水而入,潦則車水而出」,常州と鎮江の地勢が比較的に高く,転水がいつも数十丈を超えていた[64]。この「抽水(吸い上げポンプ)の効率は非常に高く,2人の成年男子が2時間で吸い上げた水は2エーカーの土地の水面を2インチも上昇させていた[65]。水利灌漑のほとんどは地勢の特殊性により異なった。西部の低丘陵山地では,当地の農民の農業生産は天然水の灌漑が中心であったが,東部沿海では,潮汐の灌漑が主であった。太湖の周辺地区は自然河湖水の使用が普遍的であった。伝統時代において一般的な城郷水利施設の建設も普遍的であった。

 比較的に興味があるのは,蘇州地区では,水郷環境の資源を十分に利用し,河港機能の正常的発揮を保障するため,水利工程がいくつかの等級に分けられ,日常の工作が郷村地方のリーダーに管理され,大型で複雑な工程が必ず政府によって組織計画し行われることであった[66]。明の中期に至り,江南地方の里甲は郷居地主の統率の下で,一年中に圩岸を浚築する活動を行い,水利事業の発展を維持させていた[67]。もともと,これらは明代でも良く見られる地方の水利建設であった。その前提として,明代の人が言うように,「天下財賦多仰東南,東南財賦多出郡,而郡于東南地最下,最多水患,故官多逋負,民多流殍,於是在廷之臣,爭言水利」である。また,治水は淞江?白茆港を首とし,専ら官員を治理に担当させるべきと提言された[68]

 人は「治田之法」?「分支脈之法」?「開淤塞之法」?「疏遠流之法」?「障來導往之法」等の基本的な対策をまとめてきた[69]。太湖沿海地区の河?江?港?汊が潮汐と繋がっており,いわゆる「運潮」の影響が注目されるべきである。当時の人は,土砂が一日の運潮により葉のような厚さに増えるため,常に河港を浚渫しなければならない。でなければ,日が増すと淤塞が発生し,舟船を通行させなくなるだけではなく,平坦な陸地にもなり,「不能備旱澇」となる [70]

 清の人もずっと同じような認識を持ち,蘇州?松江?常州?鎮江?杭州?嘉興?湖州及び太倉の土地が一省の面積に及ばないが,賦税が「實當天下之半」であり,実に国家の根本であり,これらの地方では湖が田より高く,また田は江?海より高いため,当然水利の修治が非常に緊要であった事がよく言われていた[71]。これはすでに明清時代においても朝廷から地方までの共識となり,江南水利の重要性を輕視してはいけなかったようであった。

 しかし,明朝以来の太湖水利史は,太湖水利工作の不行き届き及びそのマイナス的な影響に関しては文献の記載中に多く見られたと述べていた。

 

%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%5%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%5

* %%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%5

 

 

  评论这张
 
阅读(662)| 评论(0)
推荐 转载

历史上的今天

在LOFTER的更多文章

评论

<#--最新日志,群博日志--> <#--推荐日志--> <#--引用记录--> <#--博主推荐--> <#--随机阅读--> <#--首页推荐--> <#--历史上的今天--> <#--被推荐日志--> <#--上一篇,下一篇--> <#-- 热度 --> <#-- 网易新闻广告 --> <#--右边模块结构--> <#--评论模块结构--> <#--引用模块结构--> <#--博主发起的投票-->
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

页脚

网易公司版权所有 ©1997-2017